シルヴィア、生きるを観劇
平野綾はチェンステ、富田麻帆はスタァライト、鈴木勝吾はモリミュでそれぞれ素晴らしい演技をされていたので、この三人を間近で観られる機会を逃すまいと思い観てきた
“30歳で夭折したアメリカの女性作家シルヴィア・プラス”
女性として秘めた激情を、率直な筆致で詩として紐解いたアメリカの詩人・小説家であるシルヴィア・プラス。1963年2月11日、彼女は30歳でその人生に自ら終止符を打った。 生前は作家として評価されなかったプラスだが、死後ようやくその芸術性が認められ、死後にピューリッツァー賞を受賞した唯一の作家となった。女性として生きる苦悩や社会問題を描く作風から、日本でも特に女性を中心に支持を得てきたプラス。
彼女が残した言葉や詩に音楽を加え、ミュージカルとして発信することで、プラスも感じたであろう誰もが生きていく中で感じ得る閉塞感や「何者でもなく、何者かになる」という想いを多くの観客と共有したい。
“十年に一度の生き直し”
シルヴィア・プラスはその生涯で三度自殺を試みた。批評家アルバレスによると、十年ごとに試みられたシルヴィアの自殺は、死へ向かうものではなく新たな生に対するトライだったという。本作ではその点にフォーカスし、“死”ではなく“生”を探し求めるという願いを込めて、ヴィクトリアという架空の人物を立てることで、シルヴィアが“生”にたどりつく物語としてプラスの人生を紐解く。
あらすじ
両親に無理やり「第九王国」行きの汽車に乗せられたシルヴィアは、青い目の女性との出会いからその旅に疑問を感じて途中下車を試みようとする。
時間は流れ、優秀な大学生に成長したシルヴィア。ロンドンに留学し、やがて夫となる天才詩人テッドと出会う。しかしテッドとの生活の中でシルヴィアは、亡くなった父親と、そして彼女の人生を縛りつけた母親との記憶に苛まれる。
それと同時に文壇から認められることのない自分と才能に溢れるテッドとの間で孤独に葛藤し続け、まるで“ベル・ジャー(小さなガラスの鐘)”の中に閉じ込められているように感じる。
そんなシルヴィアの側には、いつからか彼女を誰よりも理解する女性、ヴィクトリアがいた。そしてヴィクトリアに導かれるように強く生きようとするシルヴィアに運命の1963年2月11日が訪れる。
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以下、雑多な感想
キャラクターについて
シルヴィアは感受性が高く才能ある詩人
非常に高いプライドと家庭の中で自らの才能を発揮できない閉塞感から大きな葛藤を抱えているように描かれている
テッドは数多くの賞を受賞する天才的な作家であり、シルヴィアの夫
夕食に招いた客人とシルヴィアのトラブルをきっかけに、シルヴィアとの間に溝ができてしまう
そのときの客人の一人と不倫関係となる
平野綾が演じるシルヴィアも鈴木勝吾のテッドもとても生々しくて、まさにそこに生きているような感じがした
富田麻帆のヴィクトリアは、
- 現実世界を生きた、作品世界のシルヴィアから見て前世のシルヴィア・プラス
- シルヴィアの中の内面的なシルヴィア自身
として描かれていて、ヴィクトリアによってフィクションのシルヴィアは三度目の自死を回避し人生の続きを始める
列車のシーンについて
冒頭
幼いシルヴィアは両親に無理やり電車に乗せられる
電車は人生のメタファーで、最後の駅は人生の終わりを、非常停止は自死を表している
車内でシルヴィアが出会う赤いマフラーを編んでいる女性がヴィクトリア
途中下車はできないとシルヴィアを諭すが、これはヴィクトリア自身が途中下車してしまったから
ラスト
冒頭のシーンをなぞるようだが、電車に乗せられる少女は富田麻帆、マフラーを編んでいるのは平野綾で冒頭と逆*1
シルヴィアが三度目の自殺企図の後も、少女たちのために言葉を編みつづけているという演出だとすると、フィクションの意義や力、救済を感じられるラストだと思う
声優が舞台に出ることについて
平野綾が幼少期のシルヴィアを身体表現に加えて声でも演じ分けていて、シーンの説得力が増していた
舞台の兼ね役を演じるうえで声優でもあることのアドバンテージというか、舞台俳優と声優の親和性を感じた
シルヴィアについて
シルヴィアは自分の母親を見ているようだった
仕事でストレスを抱えている
家事・育児を一人でこなしている
協力的でない夫に激昂する
一方で、シルヴィア自身が母の躾にとらわれている描写は共感できる部分もあり、シルヴィアの中に自分の母親と自分自身を見て不思議な感覚になった
親子関係は客観視することが難しいけれど、シルヴィアにはそのヒントをもらったような気がする
